先発マスク予想
大城80~100試合
炭谷20~30試合
小林01~10試合
岸田01~10試合
2020年05月
「交流戦中止」は順位に影響するのか
セ・リーグ6球団の監督、リモート会議でふざける
【野球】打率3割を残しながら、33歳の若さで引退した“クセ者”《元木大介・最後の1年》41試合 .305 0本 8打点 1盗塁
◆『男たちの挽歌』第19幕:元木大介
その男は、今季から巨人一軍ヘッドコーチになった。
25日、元木大介は巨人球団公式インスタグラムでインスタライブを行い、1時間近くファンと軽快なトークで交流した。コーチ就任時は大物OBから“タレントコーチ”なんて批判されていたが、いまや各チーム取材規制で球団独自の情報発信力が求められる中、そのラーメン屋……じゃなくてテレビで鍛えたタレント性は貴重だ。
実は本連載も、今週は「王貞治編」を予告していたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため図書館が約3カ月休館となり、資料が揃わず元木大介編に変更してお送りすることとなった。なお、小学6年生の時に後楽園球場で、その王と記念写真を撮ってもらいYGマークに憧れたのが元木である。
「大きくなったら巨人軍に入れよ」と王から挨拶がてら声をかけられた大阪の野球少年は、やがて上宮高校へ進み、甲子園で歴代2位タイの通算6本塁打を放つ高校野球史に残るスラッガーへと成長する。
◆ 憧れの巨人と浪人生活
そして、イケメンで女性人気も高かった甲子園のアイドルは、ドラフト会議前に巨人入りを熱望したのである。だが、1989年(平成元年)のドラフトは野茂英雄や佐々木主浩が顔を揃えた歴史的な豊作年。巨人は早くから六大学の三冠王スラッガー大森剛(慶大)の獲得へ動いていたが、17歳の元木の実質的な逆指名に球団内部も揺れる。
元木のスター性や話題性は、この年限りで引退する中畑清の後釜三塁手として、申し分のない逸材だ。だが、蓋を開けたら1位大森で、夢破れた元木はダイエーホークスの外れ1位指名を受けるも、これを拒否してハワイでの浪人生活へ。
ちなみにハワイといっても華やかなワイキキビーチではなく、街灯もない島の裏のさびれた地区。テレビの『大相撲ダイジェスト』日本語放送が唯一の楽しみで、人恋しさに日本人の新婚カップルに話しかけたりもした孤独な青春の記憶。
肝心の野球は地元少年野球コーチの大工のおじさんに頼んで、マシンとボールを借り、だだっ広いフェンスもないグラウンドで打ち続ける。試合は地元の草野球チームで、無名の大学チームと試合をする日々。せめて肩が弱くならないようにピッチャーを希望した。そんな生活を半年ほど続け、ようやく90年ドラフトで悲願の巨人1位指名を受けるわけだ。
◆ 終わることなきサバイバルの始まり
しかし実質的な1年のブランクもあり、プロのサイズとスピードに戸惑う。だが、元木にはクレバーさがあった。冷静に現実を見て長距離砲への夢を捨て、つなぎ役の右打ちを覚えモデルチェンジを試みたのだ。チャンスに強い打撃と、どこでも守れる内野の便利屋、時に外野守備にも就き、さらに夜はチームの宴会部長として次第に出番を増やしていく。
いい車に乗って、高級な酒を飲みたいという、若手時代から一昔前の昭和のプロ野球選手のような人生観だったが、スポンサーをつけて飲むことはしなかった。時間に縛られ、気を遣うくらいなら自分の金で飲んでいた方が断然いい。東京の遊びをそれなりに楽しみながら、元木は周囲に流されない強さとしたたかさを持っていた。
その頃、90年代中盤以降の巨人は長嶋政権の大型補強時代だ。清原和博、石井浩郎、広沢克巳(現・広澤克実)といったベテラン、さらに逆指名で同学年の仁志敏久。96年から3年連続でマント、ルイス、ダンカンと終わりなき助っ人三塁手補強まで。だが、ことごとくハズレ助っ人というなんだかよく分からない強運ぶりも発揮して、キャンプでは毎年のようにリタイア第1号元木が鉄板ネタとなりながらも、シーズン終盤には気が付けばレギュラーとして起用されている。
チームが4番打者タイプばかり集めていた時期、一軍で生き残るために考え方を変え、プレースタイルを変え、やがて元木は長嶋監督から“クセ者”と重宝されるようになる(ちなみにミスターには結婚式の仲人も務めてもらった)。
チャンスで打席が回るとワクワクするという強心臓ぶりに、大観衆の前で顔色を変えずに隠し球を決める図太さを併せ持つバイプレーヤー。98年、99年にはオールスターにファン投票で選出され、キャリアハイは26歳で迎えた98年の打率.297、9本、55打点。この年の得点圏打率.398はリーグトップの勝負強さだった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/24a981fc75986016eae3a11bfa9712d401887ccd
5/27(水) 12:22配信
http://npb.jp/bis/players/01103883.html
成績
1981年の巨人・江川卓と沢村賞選考の波紋
誰にも似ていないスーパースター
1980年代を1年1冊で振り返る好評シリーズ、6月2日発売号のテーマは1981年だ。
その主役でもあった「江川卓」という野球選手を振り返るとき、江川が巨人入団前後に受けた、あのすさまじいバッシングは避けて通れない。
のちの桑田真澄どころの騒ぎではない。大げさではなく、日本中を敵に回し、球史最大級のバッシングを受けた。
1981年の江川卓はエースではなかったのか。
78年オフ、「江川事件」と言われたルール破りを正当化はできないが、当時の批判報道は明らかに異常だった。
あそこまで過熱したのは、あまりに常識外の事件だったこともあるが、加えて、江川が抵抗したからでもある。
何度も会見を開き、海千山千の大勢の記者たちの前に立った。時に怒鳴られ、ののしられながら。
そこで、うなだれて黙っていたら、「ある意味、大人たちの被害者となった若者」で終わったかもしれないが、江川は、しばしば応戦し、あの「興奮しないでください」の発言もあった。
平気だったはずはない。引退からかなり経って、当時の新聞を見て嘔吐したという話もある。
しかし、当時23歳の江川は逃げなかった。
いい悪いではなく、ただすごいと思う。
入団してからも、1年目は敵ファンだけではなく、味方ファンからもやじられ、先輩選手から露骨な嫌味を言われることもあったという。
それでも時間と、江川自身の好成績で、少しずつファンに認めら、笑顔も増えた。
2年目の80年には16勝で最多勝。オフの契約更改で「これからは本来の明るい自分を出します」と宣言した81年シーズンの最終盤に事件は起きた。
入団前のブランクの影響も消え、速球が復活。20勝を挙げ、リーグ優勝に貢献した後の沢村賞選考だった。
結果を聞き、日本ハムの江夏豊は「許せない」と言った。「誰が見たって、江川に決まってるじゃないか」。
巨人のベテラン、堀内恒夫は「沢村賞の権威がなくなっちゃうよ。日本シリーズの前だというのにバカなことをしてくれたものだ」と腹立たし気に言った。
日本シリーズ直前に発表された沢村賞は、江川ではなく、同じ巨人の西本聖に輝いた。
1リーグ時代の47年、読売新聞社が伝説の大投手・沢村栄治(巨人)を記念して設立したもので、2リーグになってからは、セ・リーグの投手のみを対象に贈られていた。
選考基準は20勝以上、勝ちと負けの差が10以上、防御率2点台以下、奪三振率、優勝への貢献度など。読売新聞社が東京運動記者クラブ部長会に委嘱した選考会(当時)の前、大部分の声は「江川で決まりだろう」だった。
20勝(6敗)、防御率2.29、221奪三振はいずれもリーグトップ、7完封を含む20完投も素晴らしい。対抗馬は西本だったが、18勝(12敗)、防御率2.58、126奪三振はいずれも見劣りした。
ただし、選考会では「西本は6月11日時点で10勝2敗、江川が7勝3敗。江川は数字を伸ばしたのは独走態勢に入ってからだった」「投球回では西本のほうが上回っているではないか」など西本寄りの発言が目立った。
判官びいきに加え、3年前の入団の経緯や普段の愛想のない江川の受け答えに反感を持っていた記者も多かったことも影響されたようだ。
結果は西本16票、江川13票、白紙が2票。「どうせ江川で決まり」と思い、俺だけは西本に入れよう、という人が多かったこともあった。
沢村賞が西本と報道された直後、各新聞社、テレビ、ラジオ、さらには週べ編集部の電話も鳴り響いた。
読者からの疑問と抗議だ。
「西本がダメだとか嫌いだとか言っているのではない。むしろ江川より西本のほうが好きだ。しかし、沢村賞ならどう考えても江川だ」
という声がほとんどだった。
一番の被害者は西本だろう。江川からは「おめでとう。よかったね」と祝福されたが、自身は「江川さんのものと思っていた。素直に喜んでいいのか」と表情を曇らせ、その後の日本シリーズではヤジも飛んだ。
ただ、雑草男・西本の強さはここからだ。日本シリーズでは2勝(完封)でMVP。結果で雑音を静まらせた。
(出典 i.imgur.com)
5/28(木) 11:24
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200528-00000005-baseballo-base